一人先に外に出た嵐は玄関から外に出て納屋の裏の壁に背を預けた。裏は庭があり、柵
も嵐の膝より低い柵が乱立しているだけだ。
「……仕方ないことか」
 表に出た嵐は一人冷たい風に吹かれてつぶやいた。確かにいま、月夜が伝えてきた。今
つかまった。夕香たちは大丈夫だなと、断定の形でとってきた。
「ああ。大丈夫だ」
 胸に手を当てて答えてやると嵐は目を閉じた。久しぶりの雰囲気に意識を寄せる。
「姉貴、聞こえるか」
「珍しいじゃないか、お前から連絡とは」
 同じ眷属、いや、家族や大切で絆が強い者同士が使える精神感応を使って呼びかけると、
暇だったのかすぐに答えが返ってきた。しばらく話してなかったのだ。相手も心配してい
たのだろう。
「何かあった?」
 その深い姉の声にうなずいてあらましを説明した。月夜たちが追われているのは知って
いるはずだ。その月夜が相手に捕まえられたから奪い返してくれというと姉は笑ったよう
だった。
「言われると思った。都軌は、現世にいる。ちょうど向かっているところだよ。あたしが
どうこうできる問題じゃないけど、都軌が戦争の発端になるなんてありえないからね」
「まあな。すまない」
「別にいい。お前の幼馴染だと思っているんだろうが、あたしの幼馴染でもあるんだ。い
つも、助けてもらったわけだから、これぐらいは、だろ?」
「ああ」
 力強くうなずいて、嵐はもう一度礼を言って精神感応をといた。空を見上げればオレン
ジ色に染まった空が見えた。現世と異界が違う世界といえども、時の流れが違うといえど
も、空の色は同じだ。その空が崩壊することがあれば、それは両界の崩壊を意味するだろ
う。
 そんなことをふと思って、嵐は目を伏せた。すこし感傷的になる自分を抑えられなかっ
た。握っていた右手を開いて手のひらを見た。術が使えずに医療術にだけ特化した自分の
力。それを放出するのはこの手だ。
 妖狼の里で、何度も、使ってきた。救えない命も、癒せない命もあった。そんな命には
頓着していない。だが、術を使えないほうが堪えた。肝心なときに役立たず。それを気に
するなと最初に言ったのは月夜だった。
「……無事なんだな、お前は」
 なぜ、こうなったのかがわからなかった。言葉にしてみても、なぜか、ざわざわと胸の
奥が震えた。しいて言うならば絹ごしに目の粗い何かを触ったような、不思議な違和感。
「狼さん?」
 変な訛りのある呼び声。嵐はその声に振り向いた。首をかしげながら、夕香より小柄で
真っ黒い髪をショートカットにした少女がこっちに来た。
「なんだ? 莉那」
 首をかしげると莉那は背伸びして頬に触れてきた。いつの間に後ろを取られていたのだ
ろうか。そう重いながら莉那の小さくて冷たい指先に頬を寄せた。
「どうした?」
 その小さな指先を捕まえると莉那は嵐をまっすぐに見つめてきた。澄んで底のない瞳が
感傷的な光を宿しそれをひた隠しにしようとして暗い色を含んだ瞳に光を差し入れる。
「狼さん、つらそうな顔してる」
 そんなこというだろうなと思いつつも言われると驚いてしまった。指先を握ると嵐は勤
めて微笑を浮かべた。我ながらそんなキャラじゃないのになと内心苦笑してしまう。どち
らかといったら、こんな役回り、月夜のはずじゃないのかと突っ込みながら空に目を向け
た。
「大丈夫だ。すこし、空がきれいだったからな。少し、思ってただけだよ」
 ほらと指すと利那はわあと目を見開いた。真っ赤な空だ。茜空というのだろうか。
「きれいだろう」
 こくりとうなずく莉那を見て嵐は気づかれないようにため息をついた。
「でも、ごまかさないで」
 今度こそ息を呑んでしまった。閉じかけた目が勝手に見開かれ息が詰まる。莉那を見る
とこっちを見上げていた。かすかに潤んでいる。
「つらいなら、つらいって言ってください。そういう顔、最近よくしてるから。あたしで
は、あなたの支えになれない?」
 潤んだ瞳で、上目遣いで首をかしげる莉那に嵐は詰まった息をそっと吐き出した。
「いいや、そういうわけじゃない。ただ、美しすぎるものを見たら、自分の心の影につい
て少し、思ってしまうものじゃないか?」
 そう問うと莉那は少し考えてからうなずいた。表現が難しかったのかと思ったが嵐は肩
をすくめるぐらいしかできなかった。
「そういうことだよ。普段はあまり気にしていないけど、ふとした時に思ってしまう疑問
は、あるものだろう。……俺については、術が使えないということで、すこし、つらいん
だ。でも、気にしてなんかいられない。迷いがあるとすぐにこっちに出てくるからね。で
も、こういうときは思ってしまうんだ」
 自分でも何でこんなことを彼女に語っているのだろうかと疑問になった。でも、莉那は
じっと目を見つめてきている。
「すまない。所詮、こんな問題は自分の中で解決していかなければならないんだ。まあ、
聞いてくれる人がいて、少しは楽になったけどな」
 肩をすくめるとまた、空を仰いだ。と、莉那がその身を預けてきた。強く抱きしめてく
る。
「どうした?」
 また聞くと莉那はきゅっと抱きしめてくる。嵐はため息をついてそっとその背中に手を
当てた。
「どこかにいかないでね、狼さん」
 すこし、小さく震えている声。嵐は深くため息をついてそっと頭をなでてやり、体を引
き離した。
「俺がお前に黙ってどっかに行ったこと、あるか?」
 余計な心配だ。俺はあいつじゃないんだから黙ってどっかに行かないよ。そうは言えな
かった。でも、莉那はこくんとうなずいて体を離した。
「でも、こんな仕事だから、どうなるかは断言できない。ましては術が使えない俺だから
な」
「じゃあ」
 その唇に人差し指をそっと触れさせて莉那の目を見た。聞き分けのない妹を黙らせてい
る兄貴だなとふっと自分の妹を思い出した。もうそろそろ一人立ちだろうなと関係ないこ
とを思った自分に心の中で苦笑して莉那の頭に手を置いた。
「だからこそ、俺を守ってくれる、お前が必要なんだよ。本当は、俺が守ってやりたいけ
ど、力ない俺には、お前には及ばない。だけど、お前が傷ついたとき、俺は癒せる。そう
じゃ、だめか?」
 何をいいたいかわからなくなってしまった。すこし、冷静になって考えてみると、そう
いう言葉になってしまった。もう少し、後になって言うつもりだったが、もう、とめられ
そうになかった。
 莉那はわからないだろうと思っていたが、わかってしまったらしい。変なところで勘が
いいらしい。かっと顔を真っ赤にして目を見開いた。
 嵐は、そっとその頬に触れて目を閉じた。彼女が、ここにいる。自分も、ここにいる。
 そっと、二つの影は一つになったのを、夕日と、偶然見てしまった昌也が見守っていた。




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